昭和47年12月31日 特別奉修委員
中村良一
最近、言われると言うか、五つの願いと言うことが言われる。その、五つの願いの、どうぞ健康で、おかげを頂きますようにとか。家庭が円満にとか。いよいよ、子孫繁盛、家繁盛という事を、しかも、切実に願うという事が、いや、また、切実なものなんですけども、その切実さと、同じよりももっと、あの、後の二つの、真実の御用が出来ますことのために、神様のご悲願が成就、いうなら、神願成就のことのために、奉仕させていただきますように、そのために、その三つの、言うなら、願いが本気で出来、その度合いでね、自分の信心の程度と言うものが分かると思うですね。
ですから、どうしても、その信心が成長しなければ、いわゆる、おかげも成長しないのですよ。ね。そらもう、何十年信心しとっても、ただ、あの、自分のことだけが、精一杯と言ったような信心ではね。ですから、そんなら、どうしたならば、人の事が切実に願えるだろうか、世の中のことが願えるだろうか。それこそ、天下国家のことまで、本当に願わなければおられないといったような心は、どういう様な信心すりゃ、出来るだろうかという事を、やっぱ、絶えず、考えとかなければいけないと思いますね。願っておることは、もう、ほんの自分の息子のことやら、娘のことばかり、もうほんな、自分の家のこつばかり。どうぞ、今日も健康でありますように。どうぞ、今日も商売が繁盛いたしますように。どうぞ、子孫繁盛、家繁盛のこと。それは、そういうおかげを頂くことが、神様の願いなのですから、ね。だから、それを、願っておかげを受けるという事は、素晴らしいことなんですけれどもね。それがただ、あの、願われて、それが、そういうことが成就したという事だけでは、あの、本当のおかげではないという事をね、まぁ、理屈の上で、繰り返し、こうして御理解頂いておりますから、お互い、分かりましょうけれども、ほんなら、自分の、その実感と言うものが、果たして、本当に、真実の御用が出来ます事のために、ね。あの、真実の御用が出来ますことのために、おかげを頂かせてください。本当に、神様の願いが、神願成就のことのために、おかげを頂かせてください。それでまぁ、あの、おかげ頂きますよね。けれどもその、おかげ頂きます、おかげ頂いたと言いよるけれども、ほんなら、真実の御用のためにと言うことに繋がらないですね。大概の人が、おかげを受けても。ね。ですから、おかげがもう、それ以上、堂々巡りしという事になって、本当の、いわゆる、おかげになってこないのです。
これは、ここ、一月あまりですかね。遠いところ、遠方から、毎朝、参ってくる。私と友達、お年を聞くと、虎年ですから、友達です。それが最近、まぁ、奥さんに、若い奥さん、十幾つも違う奥さんですから、逃げられておられます。もう、それこそ、そのために、商売もしようごつなか。もう、来る日も、来る日ももう、奥さんのことばっかり考えておられる。そして、あっちこっち、探したり、回ったりして、まぁ、それでもまぁ、苦しゅうして応えんから、参って来よりなさる。もう、毎日ですね、そのお届けば聞かせて頂きよるとですね、ほんに、そうでもあろう。この人にとってみりゃ、そうでもあろうと思うて、お取次ぎさせてもらいよりますけどもね。もう、一月も、それが続きよってから、またここで、綿々と、奥さんのことを言われるとですね。この人は、馬鹿じゃなかやろかち言う気がするです、取次ぎ者の私が。ま、私も友で同じじゃけれどもですね。そげなあんたもう、あの、親父ば、もう私は、あげな奴はもう、家内と思いませんと。だから、別な、色々家内が要るなら、家内を、貰わしてもらうことを願うならば、まだ、ちった、こっちの気持ちがすっとするばってん。はじめの間は、そうじゃろうと思いよったです。どうでしょうか。もう、来る日も、来る日も、なるほど、子孫繁盛を願いよる、家族中のことも願いよるばってんですたい。もう、それから、一歩も出らんならですね、こら、私が思うのですから、やっぱり、神様も思いよりなさらんでしょうかねぇ。それから育たんなら、お互いの信心が。たーだ自分が、なるほど、五つの願いと言うことが打ち出されておりますから。真実の言いやおる。けれども、果たして本当に、ほんなら、ここに、なら、おかげを頂いたときに、本当にお役に立てれるか。本当に、御神願。今日、井上さんのお届けじゃないけれども、本当に、これだけ、信心させてもらいよるけれども、どれだけ神様のお役に立たせて貰いよるじゃろうかと、反省させて頂いたら、出来ておらんのに驚く、ね。だから、せめて、この事だけぐらいは、せめてこの事だけぐらいはと、今まで出来なかったことを、お届けしておられましたけれども。本当に、どれほど、自分が、神様に喜んでいただけるような御用が出来ておるだろうかと。本気で、思うて見なければいけないと思う。ただ、参って、お供えしよりますぐらいな事は、絶対、それは、自分のおかげを頂いておるためのことですから、そうじゃないです。ね。自分の願いの実感と言うものがです。本当に、真実の御用の出来ることのために、神様のお役に、少しでも立たせていただくことのために、神願成就のことのために、自分の信心、または、生活が表されておると。生活に現されておると言ったようなことを、反省させてもらう時にです。本当に、井上さんじゃないけれども、せめて、このことだけぐらいはと言った様なものが、段々、一つでも二つでも出来ていくことが、私は願われなければいけんのじゃないでしょうか。ね。
私が、ね。もう、一月あまり、もうそれこそ、綿々として、その、逃げられた奥さんのことばっかりを、もう、晩も眠られん。どうでございますと言うて、はじめの間は、そうじゃろの、ほんにそうもあろうと思うて、お取次ぎさせてもらいよったけれどもね。最近はね、もう、この人は、ちょっと馬鹿じゃなかじゃろかと、ね。そげなもう、男ば、ほうからけち逃ぐるごたる女子ば、また、追い回してから、ね。だから、もう、彼女のことは、もう諦めましたと。ですから、まぁだ、お商売をもておりますし、また、自分の、年配で、家内もいるならです。どうぞ、私に相応しい、家内のおかげを頂けるように、お繰り合わせをお願いしますち言うなら、願いが、生き生きしてくるでしょうが。同じことばかりを、汲々、綿々としてですね。お届けをしておってです、ね。私が、馬鹿じゃなかじゃろうかと思うようにね、神様てちゃ、五年も十年、二十年たったっちゃ、やっぱり、自分方一家のことだけしか、一生懸命願わんと言うなら、私は、そういう様な神様は、お心持を起こしなさるのじゃなかろうかと思うです。ね。
それに反してです。ほんなら、例えば、少しでも、一歩でもです、なら、今日、井上さんのお届けじゃないけれども、本当に、神様のお役に、どれほど立ちよるじゃろうかと思うて見ると、本当に、何にも出来てないことに気が付く。せめて、だから、この事と、この事だけはと言う、例えば、神様の喜んでいただくようなことに、発心させていただいたという事のところにです。私は、神様が、お喜びくださり、新たなおかげの切開と言うものが、広がってくるという気がするんですよ。ね。どうぞ、五つの願いを願わんなりませんけれども、あとの二つの願いが、本当に、切実にですね。あの、願えれるようにならなければ、言うなら、真に信心と言うことにはならんのですよ。ただ、三つのところだけが、繰り返し、切実に願われただけであったらですね。それは、我情我欲のための信心という事になるのですよ。ね。あとの二つの願いが、本当になされて、実感としてです。ね。例えば、ほんなら、もう、小さい事ながらでも、例えば、ほんならば、井上さんのお届けの中から感じる。本当に、言うなら、些細な事なんです。けれども、このことは、確かに、神様の御用としてです。神様に喜んでいただくこととして、はっきり見極めが付いたら、それを、早速、その事に、実行させていただこうという様な、新しい信心の足がかりといったようなものが、次々と出来ていかなければです。私は、信心の成長にはならないと思うです。ね。どうでしょうか。本当に、こん奴ばっかりは、馬鹿じゃなかろうかち、神様から、思われるような願いを綿々として、ただ、繰り返しておるようなことはないでしょうか。ね。
そしたら、今日です。その方がお届けされるのに、ね。ある青年の方から、まぁ、あなたもその、青年の気持ちで、今度、御本部参拝を、いっちょ、しちゃどうですかち、進められたち言うです。ね。それから、一つ、ほんなら、本気で、ほんならその、御本部参拝をさせていただこうと思わせていただいたら。夕べから、先日から、先生があの、書いてくださった、ね。「ままにならぬと、まま鉢投げた、そこらあたりはままだらけ」と書いてもらった。その意味が、はっきり分かってきたち言うです。一ヶ月、私が、参らせていただいて、どうぞ、どうぞと、信心しよるごとあるけれどもです。実際はです、その、まま鉢投げたような信心であって、いわゆる、その辺りは、ままだらけになっておるというような事が、今の、自分の気持ちのような気持ちじゃないやろうかと思うて、今度は、御本部参拝をさせていただいて、新たな、青年の気持ちで、新たな信心させていただこうと思うたら、夕べから、先生、この胸が、もうとても、だるい、胸を押さえて、今日、朝、言われるんです、お届けに。ね。だから、○○さん、本当に、信心のおかげと言うのはね、この胸が、とにかく、詰まってたまらない。しかもその、詰まってたまらないことが、言うならば、私から言うなら、馬鹿じゃなかろうかと言うごたる事で、胸が詰まるほどに、思うておられる事が、すきっとするということ。そこから、新たなおかげが生まれますよと言うて話したことでした。ね。自分の心が、本当の信心の心に、さっと、少し動いただけで、おかげを受けていく状態が、心の中に生まれてくるですね。
私は、本当に、取次ぎ者として、こんな気持ちじゃいけない。どんなに、繰り返し、繰り返し願われてもです。けれども、その、教導していくことが、まぁ、取次ぎ者の役目ですけれども。もう、言うなら、一月も、朝参りをしてきてから、しかも、毎日、毎日、それこそ、綿々として、もう、いうなら、のろけ話のようなお届けを、ここでされますから、ね。本当に、家内がおらんから、淋しゅうして応えんと言う話ばかりで、何のため、一月も参って来よるか。何年、あんた達、信心しよるかと、例えば、神様から、言われてですたい。本当に、馬鹿じゃなかじゃろうかと、ね。思われておるような事はなかろうかと。私は、反省してみてです。少しは、神様のお役に立たせてもらう。少しは、神様に喜んでもらえる。少しは、神願成就のことのために、奉仕できるぐらいな信心にです。何か、そこに手がかりを、少しでも、作らせて貰うという事がです、ね。
もう、いよいよ、今日、一日で、今年も終わらせていただく。今晩は、除夜祭が仕えられます。除夜祭と言うのは、お詫びとお礼の信心だといわれておりますけれども、振り返ってみて、お礼を申し上げることがいっぱい。同時に、お詫びの信心と。ただ、すみませんと、お詫びするだけでは無くて、振り返ってみたら、神様に喜んでいただけるといったような信心。なるほど、毎日、参っちゃ来よる。拝みもしよる。毎日、お初穂のお供えもさせて貰いよるけれども。果たして、それが、どれほど神様に喜んでいただくという信心に繋がっておるだろうか。自分のおかげが、教会の発展に、教会の発展が、いうなら、世界総氏子が助かっていくことのために、繋がっておるというほどしの信心で、果たしてあるだろうかと思う時に、井上さんじゃないけれどもです。せめて、この事と、この事だけぐらいは、これだけ、全く、神様に喜んでいただけれる御用路確信してです。その事に、手を掛けさせていただこうという、私は、そういう信心が、お礼と、お詫びの信心に伴わなければ、お礼とお詫びにはならんのじゃないだろうかと言うふうにさえ思うのですよ。お互いの信心を、ね。一つ、猛反省させていただいて、ね。少しは、ほんなら、特別奉修委員の方達がです。ほんなら、私のことやら、教会のことを祈ってくださる。ね。ですから、ないよりはましなけれども、それだけに留まっちゃならない。その信心が、もう一つ、私は、前進して、ね。真実の御用が出来ますことのために、ね。本気で、神願成就の事のために、お役に立たせて頂く事のために、どうぞ、商売繁盛も良かろう。体の丈夫も良かろう。家庭円満の願いも、また、生き生きとした意義が出来てくる。生き生きとした、いわば、信心の筋金が入ってくる。それを、私は、真の信心だという風に言ってるんです。けれども、なかなかですね。本当に、実際は、おかげを頂いてみないと分からんです。ここに、ほんなら、商売繁盛のおかげを頂かせて貰うて、例えば、普通、一万円しか儲からんとが、十万円儲かってみらんと分からんのです。ね。そして、それがです、ね。はぁ、自分の願いが、本当に、真実の御用の出来ますことのためにと言いよったばってん。はぁ、自分のつは、このくらいな、弱いもんじゃったなぁと言うことが分かるです。けれどもその、なら、頂く、頂かんは別としてです、ね。だから、そういう、頂いたときに、神様から、笑われんですむような信心がです。今から、しっかり出来とらなければならんのじゃなかろうかと思うのです、ね。そこで、本当に、願われるのは、いわゆる、二つの、最後の願いが、それこそ、三つの願いよりも、もっと、もっと、本当に、お役に立ちたい、立ちたいの一念が、この願いと、もう、本当に、私は、そういう風に、いつも言うんですけどもね。皆さんもです。本当にお役に立ちたい、立ちたいの一念が、この、信心修行である、この願いであると言うところまで、高められなければ、真の信心とは言えないですよね。本当に、お役に立ちたい、立ちたいの一念が、燃えてくる。だから、この三つの願いをせにゃおられんという事になってくるのですよね。どうぞ。